『イノセンス』(続き)

(2)
前回も触れた、バトーの傷ついた身体が修復されるシーンでは、どこまでがおれのオリジナルか?という問いに対し、医者(?)がDNA情報はちゃんと受け継がれてるよと答え会話は打ち切られるのだが(このシーンは特に記憶があいまい)、このやりとりはまさにバトーの「自分の存在とそれを語る言葉・倫理との間にある、整合できない溝」を示唆している。DNAといえど、情報はただ何かを外在的に記述するだけであり、それはアンドロイドのコードとなんら変わらない。
そこで問題となるのが「ゴースト」である。
まず、「Ghost in the Shell」という言葉は、ぼくにはギルバート・ライルの「ghost in the machine」という用語を連想させる(ぼくは士郎正宗の原作はまったくフォローしていないので、それこそ北と南西くらいの方向違いをしているのかもしれないけれど)*1。この用語はデカルトから派生した(とされる)心身二元論―身体は物質であり機械論的自然法則に従うが、精神は物質とは独立に存在する―を、一般的な分かりやすい形で表現したものだ。すなわち、精神(心)は身体に住むよくわかんない幽霊みたいなものだ、と。
ところで、デカルトは『方法序説』の第五部で次のような議論を展開している。

われわれの身体とよく似ておりかつ事実上可能なかぎりわれわれの行動をまねるような機械があるとしても、だからといってそれがほんとうの人間なのではない、ということを認めるための、きわめて確かな手段を、われわれはやはりもつだろう(『方法序説ほか』中公クラシックス

この二つの手段とは、
1.言葉(および、それに類する記号)の使用、意味に応じた答えのために言葉を配列すること
2.(理性的な)認識による行動
であり、それらを機械は「できない」。そこから機械が人間ではないことが確認できるという流れだ。続けて、この二つの手段によって、動物と人間もまた違ったものであることが確認できると、デカルトは述べている。
さて、この二つについて少し考えてみる。まず、1も2も機械にできないとされていることは同じである。すなわちそれは、1に即せば「自分の前でいわれるすべてのことの意味に応じたこたえをするために、ことばをさまざまに排列する」ことができないのであり、2についていえばそれは「認識によって行動」すること(つまり一対一対応的に反射するという、「器官の配置によって行動」するのではないということ)である。
もちろん、その帰結(および前提)として、機械(あるいは動物)には「理性」がないということが強調されている。だがしかし、こうした議論の展開は言うまでもなく21世紀の今日においては難しいと思われる。つまり、次のようなデカルトの思考が技術の発達によって現象的に乗り越えられつつあるからだ。

理性は普遍的な道具であってあらゆる種類の機会に用いうるものであるに対し、それらの器官は、いちいちの個別的な行動のためになんらかの個別的な配置を必要とするのであり、したがって、生のあらゆる状況において、われわれの理性がわれわれを行動させると同じしかたでその機械をして行動せしめるにたるだけの、多様な器官の配置が、一つの機械の中にあるなどということは、実際上不可能なことだからである(同上)

もちろん、『イノセンス』の世界はこうした思考を現象的に乗り越えた状況(というか時代)として設定されている。だからといって、「こうしたデカルト的人間観(機械観)を採用した場合、人と機械(アンドロイド)とがもはや区別のできない存在となっている」というわけではない。というのもこの人間観には、「理性」から「理性的精神」への飛躍が内包されているからだ(とぼくは考える)。
「精神=ゴースト」を考える必要がある。



途切れ途切れだけど、後は次回。
ついでなので『イノセンス』について書かれたページをさくさく見て回る。見ないほうがよかった。いろいろ気になる部分が多くて。例えば、ここの3月11、12日あたりの日記について言えば、

ここでは分析する行為自体にもはや「意味」がないのだ。答えはすべて作品冒頭に記されてあるのだから

みたいな、謎本的な発想で映画を見るという視点の一元化は正直狭いと思うし、「構造」と「テーマ」と「結論」が混濁されている窮屈さもある。まあそれは、この日記で使われている例えば「映画的に機能」とか「トラップ」とかいったような言葉の「意味」がまるで分からない(というか、それが出てくるコンテクストが分からない)ぼくの問題なのかもしれない。


*1:検索をかけてみたらやっぱりこの繋がりを指摘するサイトがいくつかあった