『イノセンス』

ひさしぶりのblog更新。今回は昨日見た映画『イノセンス』(監督:押井守)について、少し考えてみたい。
昨日は『イノセンス』と立て続けに韓国映画の『ラブストーリー』も見ていて、『猟奇的な彼女』がひどく気に入っていたぼくはそっち(同じ監督クァク・ジェヨンの新作なので)について、つまりロマンスにおいて運命とか奇跡とかがどのように操作されれば(効率的に)感動が演出されるのかということを考えてみたいと思っていたんだ。けど今回は『イノセンス*1
画とかエフェクトについては、ぼくは専門的なことにはまるで興味がないのでそれが「どういうふうに」すごいのかは分からない。なのでパス。でも綺麗で毒々しく、強烈で圧倒的だったのは確か。音楽も。そういった印象が各場面とミスマッチしていない演出はよかった。
さて、ぼくにとっての本題へ。以下、ネタバレ。


(1)
この映画を「ぼくが」理解するにあたって、一番の補助線になったのはやはりデカルトの議論になる。どううがった見方をしたところでこの映画が「生命」について扱っているのは自明なことで、その議論は「人形」を主題化していることにもあらわれている。「人」「サイボーグ」「人形(ロボット)」。並べることであいまいになるのはその境界線であり、また境界は科学によってすでに踏み越えられている。よって、この並置がこの映画の中で意味するところは倫理の更新である。
このへんについては、例えば検死官ハラウェイ(この人物のモデルはやはり「サイボーグ宣言」の、あのダナ・ハラウェイなのだろうか*2)との会話シーンの中でバトーがデカルトの人形について触れていることや、キムが「17世紀の人間機械論が再び・・・」云々と語っているあたりからも主題化されていることが読み取れる(場面については記憶に自信がない部分あり)。また、暴走を起こしたアンドロイドは設定された「倫理コード」に抵触することで自壊するのであり、ここでもやはり倫理が問題となっている。
もちろん、これらの問題はバトーの身体に即せば自明なことでもある。さきほど「境界」という言葉を使ったが、「サイボーグ」とは「人」と「人形」との境界そのものだとも考えられる。スーパーで電脳をハッキングされ、傷ついた身体を修復されるバトーは、人形へと近づいてゆく存在でもある。
この映画の中でバトーがいらついているように見えるのは、(少佐との関連ももちろんあるが)こうした自分の存在とそれを語る言葉・倫理との間にある、整合できない溝だと考えることもできる。哲学における原初の問い、「自分とは何か」が観念のレベルのみならず身体のレベルにまで現れてきているともいえる。
さて、この問いにおいて問題となるのが「ゴースト」である。


以下、眠いので次回へ。


*1:べつに『ラブストーリー』が面白くなかったとかそういうわけではなくて、タイミングの問題。一部の映画サイトのレビューとは違い、ぼくには『ラブストーリー』は楽しんで見れた。すぐに物語の構造が見切れてしまうとか、あといろいろ問題もあるとは思うけど

*2:後でちょっと検索かけてみたら押井守自身がダナの名前を持ってきたと話していた。ここでダナについて触れることは、身体論という点においては必然か