[愚者考]−『方法序説』

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いま「世界」について考えるとき、『方法序説』からいったい何を取り出すことができるだろうか。改めてそのことだけに集中してみたい。
まず、「判断のレベル/行動のレベル」の区分を思い出してみる。ここで具体的な他人とのコミュニケーションが属するのは、もちろん後者になる。人間社会というものが(とりあえず)実在するとして、そのレベルというのは「行動のレベル」になるわけだ。そしてこの「行動のレベル」は「判断のレベル」に対して常に先行する。よって、「私」は「行動のレベル」(最低限物体としての身体を含む、生活のレベル)においては「仮住まい」を余儀なくされる。さらに、ここで発生する倫理については、道徳格率からのみ導かれる。そして、この道徳格率は「判断のレベル」の破壊と再構成のための担保として要請されている。
方法序説』に即する形で「社会」(共同体)について考えようとするならば、あるいは社会の中の存在としての人間の倫理について考えようとするならば、その方法はおそらくこの道徳格率にコミットする形で展開するしかないだろう*1
では、ここで想定されている「社会」とは、ぼくがいま問題にしたいと思っている「世界」なんだろうか。そのことについて少し考えてみる。
まず、そこには確かに何らかのやり取りが存在している。以前述べたように、この「社会」においては「非決定」は許されないと思われる。なぜならば、そこは他人の介在するレベルだから。ありふれた言い方になるけれど、人間はこのレベルにおいては一人で生きていくことはできない(生活者は一人では生活できない)。一人で生きていくことができない以上、そこには他人が不可避的に介在し、そしてこのレベルでは「非決定」は許されない。なぜなら、それさえも「決定しない」という一つの決定として「見られてしまう」ことになるから。少なくとも、あるとき思い立ってすべての真偽を(判断のレベルで)見直そうとする者にとって、生活者のレベルとはそのようなものとして考えられる。
ここで以前述べた「態度/展開」の区分を思い出してみる。これを「判断のレベル/行動のレベル」の区分に浮かび上がらせることは可能だろうか。
「態度」が「展開」についてメタ的位置を占めていた(俯瞰的な視線を獲得していた)のに対して、「判断のレベル」もまた先行する「行動のレベル」を視覚的に捉えることができる。しかしながらその関係性はさながらアキレスと亀のパラドクスのようなものであり、前者は後者に対してメタ的位置を取っているわけではないと思われる。「態度」を規定する一つの特徴は無時間性であり、その無時間性ゆえに「展開」の時間系列を見通すことができた。対して、「判断のレベル」はその性格上時間性から抜け出すことができずに、先行する「行動のレベル」を常に諦めとともに捉えるだけだと思われる*2。この点については「捉える必要はなく、この二つのレベルは完全に分離される」と考えるには障害がある。すなわち、「私」という障害。「判断のレベル」と「行動のレベル」とは、いかにその分離を進めようとも、「私」というシーンを共有するという一点においては分割不能だと考えられるからだ。
「私」を蝶番として重なりある二つのレベル。ここまで考えた中でぼくが「社会」と名指したものは、その一方のベクトルが向かう先に過ぎない。


さて、ぼく自身の目的を再度確認しておこう。ぼくの目的は、「『世界』とはいったいどういうもので、それはぼくや彼/彼女とどのように関係を切り結んでいるのか」を考えることだ。それにはこの実感のレベルにある「世界」という概念を少しでもはっきりさせなければならない。ある意味、定義づけ。そしてこの「世界」は、おそらく『方法序説』においては、「社会へ向かうベクトル(道徳格率から展開されるであろう倫理)」ではなく「真理の探求(判断のレベル)へのベクトル」へ、あるいはその二つのベクトルの基点・シーンとしての「私」に、色濃く反映されていると思われる。なぜならば、「真理の探究」とはまさに、「世界を(正しく)定義づけよう」とするその試みを論理のレベルで実践しようとする行為のことだと言い換えることができそうだからだ。
この実感をそのまま『方法序説』に当て込むと、「世界とは真偽判断のできる命題の全て」だということになりかねない(だろうなあ、きっと)。そして『方法序説』は命題判断のための方法論の書ということに。別にそれでもいいんだけど、そうするとぼくの目的がもっているリアリティがそぎ落ちてしまう。つまり、「論理から零れ落ちる次元」を暗に(あるいはあからさまに)ぼくに感じさせる「世界」という概念の側面が抜け落ちてしまう。
このことはきっと当たり前のことで*3、だからこそオントロジーが前世紀に(大量生産と大量殺人の時代に)隆盛をみたのじゃないか。つまり「世界」について考えるために基点としての「コギト」(と資源としての「良識」。これも忘れてはいけない)へと目を向けること。それが必要になってくる。「コギト」は、論理的展開の起点として捉えるとともに、それを(命題の総体としての)世界を構築するものと考えることによって気味の悪いものにみえてくるぼくには。そういったものが存在の形式をとること。ぼくにとって、『方法序説』で最も「世界」にかかわっていると思われるところはここだ。


とまあ、こんなところで『方法序説』、終わり。


*1:さらに言えば、それは実定的ないくつかの規則を基にしているために、必然的に機械論的展開となる

*2:倫理については、先に触れた「行動のレベル」における道徳格率から導出される可能性、それとこの「諦念」(これはおそらく人間にとって決定的なものだとぼくには思える)から導かれる可能性、その二つがある予感がする

*3:そしておそらく「動機付けの欠落」みたいなものが、こうした論理的な世界概念を不十分だと感じさせるのだと思う。いまや真理の探究をそれだけで自分を駆動させるような何かだとは感じない、人は(少なくてもぼくは)。方法ではない。何のために「真理を探究」するのか、この問いかけこそにこそアクチュアリティがあるんだきっと