[愚者考]−『方法序説』

(4)
さて、ここまで考えてきたことからいったいどんなことをぼくは言うことができるだろうか。
方法序説』においては、いくつかの区分が交錯されることによって考察が展開されている。なかでもとりわけ重視するべき区分は、「判断のレベル/行動のレベル」と「精神/物体」という区分だとぼくには思われる。
さて、ここまでずっとだんまりを決め込んできたぼく自身の問題意識だけれど、それは「『世界』とはいったいどういうもので、それはぼくや彼/彼女とどのように関係を切り結んでいるのか」というものだ(そんなことを言うと、「だったらハイデガーを読みなよ」とかそういった声が聞こえてくる気がするけれど、それは後回し)。
なんでそんなことを考えているのかというと、それはまったく個人的な動機でしかないし、まあ簡単に言ってしまえば趣味の問題なんだけど、そういった問いの設定自体がぼくに対してある種の切迫感を与えてくれるからに他ならない。また、この問いを眺めるとまるで「世界」っていう有機的な何かが実在するかのようだし(実際指示はしてしまっているし)、その分析可能性の向こう側に「私」や「彼ら」との関係性の実在までも期待してしまっているわけだ。
そういった予断に溢れた問いの設定なわけで、それでもその設定にリアリティを感じてしまっている以上は、そのなかでプレイヤー的にうろうろするしかない。
問題は(あたりまえだけど)、ぼくが「世界」をきちんと定義できていないということにある。まず、「世界」はこの21世紀の現在において「社会」とどう違うのか、明確に理解できない。「世界」=「コスモス」と捉えるならば当然古代ギリシアからの哲学的思考の蓄積が役に立つのだろうけど、その場合「コスモス」の対義語としてはさしずめ「カオス」が当てられることになるのだろうし、そうした場合、軽はずみな即断はできないけれどさっきの問いの持っているぼくにとってのリアリティの半分くらいはもやもやしてしまう。
大切なことは、「いま」世界を問うことだ。そしてそのことは、例えば「可能的経験のいっさいの対象の総括」であるとか、「世界は成立していることがらの総体である。世界は事実の総体であり、ものの総体ではない」といった言葉の意味や展開を考えながらも、一方で例えば「世界は幸福に満ちている/社会は幸福に満ちている」といった言葉のリアリティについて「いま」考えることだし、「ぼくたちは世界に押しつぶされている」(あくまで一例を挙げるなら)*1といった場合の、ぼくたちと世界との関係について「いま」考えることだ。
そういった意味では、ぼくの問題意識というのはあまり哲学的なものではないし、問いの成り立ちはともかく、その向かう方向は社会学的でもない(気がする)。強いて言えば、「なんつうか、このめんどくさい感覚」をめぐる戯言のたぐいにすぎない。なんだけど、いちおうこいつがぼくのなかの中心的な問題になっている。
さて、そんなことで頭をぼんやりさせながら『方法序説』に立ち返ってみたい。


*1:例えばこういった言葉に対して「疎外論」的な甘えの構造を見て取りそれを根拠に「教育」する、といった発想をぼくはとらない(とれない)。それは「社会」の問題だと思っていることもあるし、ぼくはあくまでリアリティにコミットしたいから