[愚者考]−『方法序説』

(3)
方法序説』においてつぎに現れる「2」は、「精神/物体」の区分、つまりいわゆる心身二元論というやつになる。この区分は実体レベルにおける区分であって、それぞれ神以外にその存在の根拠を支えるものはない。
「神の存在証明」の部分に関して言えば、デカルトは「より完全な存在」という言い方(もちろん、神のこと。あるいは神としてある種の表象をもたされているもの。端的に「完全存在」という言い方をしても問題はないとぼくには思える)を多用する。そもそも読んでいく中で「2」という区分のあり方を中心にすえる解釈ができてしまうほどに、デカルトは「相対化して比較する」という手段を多用する。その際の物差しがこの文脈においては「完全性」というものであり、物差しである以上測る際にはその基点となる(というか、一方の極となる)ものが固定されていなければならない。その点からも、「完全存在」は必然的に導入されることとなる*1
このようにして、「神の存在証明」は「完全性」を議論することによって成立している。そしてこの議論を下敷きにすることで、デカルトの「精神/物体」の区分、および前者の後者に対する優位性(優位性という言い方はおかしいかもしれない。「私」という実体の本質を、私の「精神」にもとめるということ、というくらいが適当か)は整合性を保っていると言えるだろう。

以降、(4)へ。


*1:このことから副次的に次のように考えることができる。すなわち、「完全存在」としての神は、「完全性」による比較というプロセスを成立させるための担保として不可避的に導入される。ここでは「基準」がその測るべきものによって支えられるという循環が発生している