[愚者考]−『方法序説』

(2)
つぎに、デカルトが道徳の格率について語りだすときに現れる「2」が、「判断のレベル/行動のレベル」という区分になる*1。この部分については、「非決定」という言葉が一つの核なんじゃないかとぼくは思う。非決定が許されるレベル(判断のレベル)と許されないレベル(行動のレベル)とがあるということ。許されないのは、そのレベルには生活があり、時空間に支配され、他者がいるということがあるんじゃないか。そして、許されないレベルにのみ、格率を設定すること。では、これら格率は、構造としては先に触れた「4つの規則」と同じ位置を、「行動のレベル」において占めていると考えていいのだろうか。
前回(1)で考えた「態度/展開」という区分は、この道徳格率*2においては成立していない。「行動」というところから考えると、(さっきちょこっと触れたけど)このレベルというのは世俗社会での生活者というレベルといっても良い気がする*3。そして道徳格率とは生活者の心得みたいなものだ。だが、その発端はそもそも「判断のレベル」を純化させるための機能的な担保だといえる。「やっていかなきゃいけないから、とりあえずその方針を決めておく」というニュアンス。それは、この道徳格率が建築のアレゴリーの中で、「仮住まい」のための方針として明示されていることにも関連する。
以前この部分に関してぼくは、「判断のレベルが妥当な形にまで成長するまで日常は待ってくれないから」道徳格率が必要になるんだ、と読んでいた。基本的にその認識は変わらないけれど、「判断のレベルの成長」みたいなものが完成されないかぎり、この「仮住まい」は終わらない。そしてその完成が想定できない以上、「引越し」は永遠に遅延されることとなる。すなわち、「判断のレベル/行動のレベル」という区分の設定や判断の再構築が意味することとは、「生活とは永遠に仮住まいでしかない」というデカルトの認識ではないだろうか。そしてこう考えるならば、生活者の希望とはこの限りない「先行」が解消されることにしかない。
だからこそ、デカルトの道徳格率は「未来における可能性を狭めない」意味内容を持っているんだということができる。当時の社会情勢等を踏まえるまでもなく、生活とは外的要因によって左右されるものである。そのことを思えば、道徳格率は判断の再構築というデカルトの目的から分断されたものではなく、あくまでその要請だと考えることができる。
そしてそれは、デカルトが「社会」というものにたいして「仮住まい」的な、「唯名論」的な立場を占めていたということを意味するように、ぼくには思える*4

以降、(3)へ。


*1:この日のblogで確認

*2:内容についてはこの日のblogにて

*3:「行動」については、ここでは一応「観察結果の客観的描写」としておいて、内在因等を含まないこととする。というのはもちろん、デカルトにおいてはこの「内在因」(適切な言葉ではないけれど)こそが別のレベルとして分離されている(かのようにみえる)から

*4:この点について、小泉義之デカルト 哲学のすすめ』と一部認識を共有する。だが、小泉が「精神的生活/世俗的生活」の分離を徹底させている方向でデカルトを読んでいるのに対し、ここでのぼくは「仮住まい」、つまりメタ的視点の遅延による「判断のレベル/行動のレベル」の必然的分化を問題にしている