[愚者考]−『方法序説』

さて、『方法序説』について考えてみよう。
(1)
はじめに直観的な物言いをしてしまえば、ぼくが何を『方法序説』解釈の核とするかというと、それは「展開」と、「」という二つになる。
第一部から順に読んでいったわけだけど、最初のキーワードとして考えた「良識」については、ぼくはそれを静的で固定的なものだと捉えた*1。さらに、ぼくはそれを最小限の資源のようにみなしている。石油のように分割可能争奪可能でどこかにあるものではなく、個々人が絶対的に配分されている資源のように。「理性(=良識)=自然の光」のアナロジーデカルトにおいても働いていることは示唆的だと思う。光。
そのことを念頭において、デカルトの4つの規則を読んでいくと次のような捉えかたができるだろう。4つの規則(明証の規則、分析の規則、総合の規則、枚挙の規則)について、ぼくはそれを大きく2つに区別した。つまり、(A)明証の規則と、(B)それ以外の3つの規則とに。そして(B)については、それはプロセスであると考えた。すなわち、(B)とは、「良識」という資源を基にした「展開」の規則であると捉えたわけだ。
(A)については、当初ぼくはその「明証的」という言葉と「良識」という言葉を並べることによってその構造に類似点がある(つまり、それらの起源は論理的には遡れないという予感が、当初からぼくにはあった)と考え、しかしその矛盾点も同時に認識していたつもりだったので軽く混乱し、思考を棚上げにしていた*2
しかしながら、一方に「資源の展開」というひどく作業的なものを据えるとしたならばその矛盾点はそのままの形で保持され、かつ解消されるとぼくには思われる。つまり、(A)は「資源の展開」にたいするメタレベルの規則なのであり、倫理的な「態度」といえる。
ここにはじめの「2」が現れる。つまりそれは、デカルトにおける4つの規則に現れる「態度/展開」の区分という「2」である。

以降、次の機会(2)に続く。


*1:「「等分に所与」である以上、そこに変化を認めてはまずいだろうし、方法論を語りだすのにも不都合だから」と書いている

*2:以前のblogを見るとよく分かる