Private Opinions

きょうからデカルト方法序説』読了の所感をまとめていこうと思ったのだけど、ちょっとその前に僕自身の方法論について確認しておく必要がある。
まず、いままでこのblogで読んできたことや所々感じたこと・考えたことというのは、基本的にぼくのためだけに存在する「考えるための糸口」みたいなものだ。だからこそ、ぼくは「・・・らしい」とか、「・・・と感じる」とか、「ちょっと・・・じゃないかな」とかを多用して、要するに断定調を注意深く避けてきた。「あとで読み返す」ということが前提になっている以上、そのときの自分の確信レベルみたいなものが分からないとまずいと思ったからだし、いいかげん、言い切るという「あり方」が胡散臭くなってきて(これは現代の社会的状況がもたらす一つの悲劇だと思う)、実際のところもうたまらないという気持ちがある。
「ぼく」という主語の導入もだいたい同じ理由による。というか、(blogとか)論文は主語が書いている自分である以上、それを省略することが可能だし自明だと思っていた。個人的にはいまでもそう思うけど、ただ最近は(一部にして大部分の)小説や歌詞なんかの悪い影響がかなり浸透してきていて、どこまでが自分の意見でどこからが他人の意見の引用・解釈なのか、まったく区別のないものが多いのも現状だとぼくは認識している。そうしたことも考えて、「ぼく」という主語を積極的に使っている。
さっき「どこまでが自分の意見でどこからが他人の意見の引用・解釈なのか」みたいなことをシラっと言ったけれど、そういうことを言うと「オリジナルな意見なんて存在しないじゃないか」みたいな反論が予想される。そしてその反論はおそらく正しい。昔からすべての言葉は横につながっているし、そうした比喩的な物言いはハイパーリンクで容易につながるwebを社会が手に入れた現在、簡単に把握できるようになった。
でも、なんでそれは「おそらく」だとぼくが感じているかというと、それは倫理的な問題を要請するんじゃないかという予感があるからだ。数日前のblogのなかでちょっとデカルトのプライド意識について触れたけれど、それとの関連や、あとは「責任」の問題。考えるという行為(ぼく自身は、やはりそれは行為だと思っている)を主語のあいまいなものに仮託することの恐ろしさを忘れすぎるというのは、やっぱりどうかと思うわけだ。
それに加えて方法論的な問題点もある(デカルトを読んでいることの意味でもあるね)。「オリジナルな意見なんて存在しないじゃないか」という意見はすなわち、すべての意見を相対化し文脈を重視するという姿勢をひとつの「規則」にするという方向へ働く。つまり、その規則に沿ってすべての思考が方向付けられるという可能性が高いと思われるわけだ*1。このことにはいくつかかんがえなくちゃいけないことがある気がしている。倫理的な問題との兼ね合いで。
あとひとつ、「オリジナルな意見なんて存在しないじゃないか」という言い方を前に、さらに文脈重視の枠組みの前にぼくが立ちすくんでしまうのは、「じゃあいったい何から始めればいいんだ」ということだ。もちろんこれに対しても、「とっくにもう始まっているじゃないか」みたいな、存在は自己意識に先立つんだから何をいまさら、みたいな意見が頭にちらつく。しかしながら実際に何かを考えるときに、その文脈の莫大な情報量におののくのも現実なわけだ、ぼくにしてみれば。もし倫理がその情報量の先にあるものだとすれば、それは限りなく遅延される。
そこで、ぼくはこういうふうに考えてみることにした。
「はじまりは野蛮であり、その野蛮さは遡及的に思考の対象となり、かつ修正は未来的になされる」。
まあ、当たり前といえば当たり前のことなんだけど。
最後に、なんでblogにこんなことを書くのかというと、これはおそらく通常的な利用方法じゃないのかもしれないけど、自分を縛るゆるやかな強制力としての意味合いが強い。要するに、「さぼんな」ということだし、あと他人にちょっと見てもらってもだいじょうぶなレベルを意識するということ。
そういうこと。


*1:これとほとんど同じようなことを社会学者の北田暁大が『責任と正義』の冒頭で述べているのを見つけた。読み始めるつもり