[愚者読]−『方法序説』

第六部へ。うまくいけばこの読書も今日で最後。

 第五部と同じくらいの長さ。
 ただ、『世界論』を刊行しなかった理由だとか、いまこの書物*1を出す理由だとか、そんなことをうだうだ言ってるのが大部分で、そういう枠組みのせいでなんだか愚痴聞かされてるような気持ちになった、ぼくは。
 そういうわけで、気になったところだけ抜粋。

精神でさえも体質と身体諸器官の配置とに依存するところまことに大であって、人間をだれかれの区別なしに今までよりもいっそう賢明かつ有能ならしめる手段が何か見いだされうるものならば、それは医学のうちにこそ求むべきである、と私には思われるほどなのである(P77)

 医学を重要視する姿勢、文脈。重箱の隅をつつくようだけど、精神と物体とは峻別されるべきものじゃなかったのかなあと思う。まあもちろん、この部分の「精神」にはそんなに重い意味が込められていないのかもしれない。日常的な実感のレベルならひどく分かりやすいけど(感覚的に)。
 さらに、実験について述べた文脈の中で、演繹と帰納について触れている(P79−80)。自然にはあまりに多種多様なものがあふれており、演繹によってこれらの異なる帰結をたどることには困難が伴う。そこで帰納的手段がとられる。「結果のほうを先に見てそれから原因におよぶようにし、多くの特殊な実験を用いるとうにする」という手段。至極ごもっともだとは思う。
 次。

私は自分の行動を何か罪悪ででもあるかのように隠そうとつとめたことはないし、世に知られまいとひどく用心したこともない。そういうことは自分自身を不当に扱うことだと考えた(P91)

 著作の出版にいたる紆余曲折を考えると面白いが、それを抜きにしても、ここはなんだか凛としててかっこいい気が。「自分自身を不当に扱う」というのは、プライドの問題、ひいては道徳の問題を考えるときに主軸となる視点だとぼくは思う。誰かから、何かから簡単に傷つけられるようなものをプライドと呼ぶ人間が多いと感じるので。
 あと、「実験」などをめぐる文脈の中で、「私よりあとまで生きる人々」に何度か触れている点にも目が留まった。教育的態度とか、思想の継承可能性への信頼とか、そういったことをぼくは思った。
 最後に、終わりのほうから少し引用。

(『屈折光学』と『気象学』の中で)あとのものはそれらの原因であるところの、初めのものによって論証され、初めのものは、それらの結果であるところの、あとのものによって論証される、というようになっているのだ(・・・)が、しかしこういっても、論理学者が循環論証とよぶ誤りを私がおかしているとは考えてはならない(P92−93)

 おととい考えたことと類似の問題構成についてデカルトが答えている部分なのかもしれない。ただ、『屈折光学』も『気象学』ももちろん読んでないし、いろいろと違いもあるのでパス。

と、以上で読了。
通しで読んでいくと、初めのころの自分の捉え方が、デカルトの文脈では「まずい」ということが判明することも多々あった。これからそこらへんをさかのぼって検討していくつもり。あと、どうやって自分の思考様式に活かしていけるのか。
はあ、短い本なのに長かった・・・。


*1:方法序説』と、『屈折光学』『気象学』『幾何学』の3試論のこと