[愚者読]−『方法序説』

第五部へ。

 第五部はわりと長い。

第一の真理から私が演繹した他の真理の連鎖のすべてをここに示したい(P52)

と始まっているけれど、実際は当時の社会状況(宗教裁判乱発、下手なことを言ったら罪人どころか処刑されてしまう)への配慮などから、一部を除いてたいしたことには触れていない印象。だいたい、内容自体が「発表を控えている一つの論文」*1の紹介みたいなものらしく、なんというか、はしょってる感じがするのは否めない。
 まあとにかく、この第五部では「物質的事物の本性」について、なかでも世界と人体について書かれている。物体的本性についてそれを機械論的に述べることによって、派生的に動物と人間との違い、つまり、知性的本性(理性的精神)がやはり強調されることになる。
 気になった点。
 特になし。有名な「動物精気」の議論がこの部分だと知ったことくらいか。
 あと、デカルトの議論の中で「脳」がどのような位置を与えられているのかという点にも興味を持った。というのは、第五部によれば、「脳」は(なかでも「共通感覚」は)観念が刻み込まれる場所とされているわけで、「記憶」(観念を保存するところ)や「想像」(観念を変化させたり、新しく組み立てるもの)と深くかかわりを持つ。ところが、これらは第一部で「精神の完全性をつくる性質」だと言われているものだ。
 ここでは「精神」と「事物」との境界線が揺らいでいる。その点は興味深い。
 第五部、終わり。

誰でも考えることだろうけど、高度に発達しつつある現代のAIやクローン技術の存在を前提としたとき、果たしてデカルト的な機械論はその有効性を保つことができるのだろうか(まあもちろん、すでにその優位性は崩れているといっていいのだろうけど)。うーん、昨日考えたこととおんなじか。


*1:デカルト生前は刊行できなかった『世界論』のことだそうだ