[愚者読]−『方法序説』
遅々として進まない。とにかく、続き。
幾何学の証明については、それは明証的だが、対象の「存在」は保証しないとするデカルト。そしてここから三つ目の神の存在証明(「神の存在論的証明」@カント)へ。
完全な存在者の観念の中には現存ということが含まれて(いる)(P46)
このことは「いっそう明証的である」とデカルトは言っているわけ。で、そのことが分からない人というのは、「彼らの精神を、感覚的事物よりうえに高めることがけっしてない」人なんだ、と。ここでデカルトは、「想像」という思考形態を完全に否定している。
次、引用。さきに私が規則として定めたこと、すなわちわれわれがきわめて明晰に判明に理解するところのものはすべて真である、ということすらも、神があり現存するということ、神が完全な存在者であること、および、われわれのうちにあるすべては神に由来しているということ、のゆえのみに、確実なのである(P48−49)
先日からずっとひっかかってきた「明証性」に関する議論が、この部分によって完全に閉じている。「ニワトリとたまご」みたいな、どっちらが先行するのか判断のつかない循環。結局、ここについては行き止まりのようだ*1。
まあ、ここがぼくとしては最大の疑問。あとの部分はするすると読めてしまったので、第四部、終わり。
いまとなっては、デカルトの考えた中からいまここを生きるぼくにも使いまわせそうな議論を引っこ抜くのが目的となりつつある。そうすると、「明証性」の部分に深く拘泥するのはあまり建設的じゃない気がしてきた。予感としては、「判断のレベル」と「行動のレベル」との区別および相互関係あたりが何かをもたらしてくれそう。予感。うーん、デカルト的じゃないんだけど。