気づけばすっかり桜も散っている。ひさしぶりの更新。あんまり間を空けると自分が不安になるので、とりあえずいま考えていることをメモ。


ひとつは、前からの流れで「世界」について。
「世界」をどのようにして「定義するか」ということ(試み)には、あまり意味がないような気がしている。例えば、いま読んでいる最中(というか、長期中断中。思い立てば数時間だと思うんだけど)の宮台真司速水由紀子の共著本『サイファ 覚醒せよ!』の「まえがき」のなかで、宮台は次のように前置きする。

本書では、社会の外側に言及するために、哲学史的伝統を踏まえて「世界」という言葉を用いるが、世紀末にいたり*1、さまざまなメディア表現(・・・略・・・)に共通して「世界の露出」が描かれるようになった(『サイファ 覚醒せよ!』)

社会の外側に言及するために「世界」という言葉を使う(知識不足のため、この伝統がどういうものなのか、ぼくにはピンとこないのだけど)。その際にキーワードのなるのは「コミュニケーション」である。

ところが近代社会では、コミュニケーション可能なものの総体を「社会」と呼ぶようになります。ただし、近代社会だと、「社会」の外側にコミュニケーション不可能なものたち、たとえば法則が司る物理現象や生物現象があって(・・・略・・・)。場合によっては、宗教的な超越世界があって(・・・略・・・)なんていう考え方もでてくる。つまり「社会」を超えた「世界」があると考えるんだね(同上)

そこからの論旨は明快だ。古典古代や中世は宗教が「世界」の中に「社会」を位置づける役割を果たしていたけれど、近代社会では世俗化が進み、「世界」との関係性が揺らいでしまう。そこから発生するアノミーから身を守る(そこまで積極的な意味はないにしても、マインドコントロールを行う社会から身を守る)ためには、「世界」の中に「自分」をうまく位置づけなおす必要がある。と、要約すればこんな感じになるんだとぼくは思う。
とても分かりやすいし説得力もある議論だと思うんだけれど、なんというか、しっくりこない部分も多い。もちろん「コミュニケーション」をどう捉えるかということもあるんだろうけど、それを置いておくとしても、コミュニケーション不能なものは論理空間では捕捉できないだろうし、だからといって論理的なアクセス可能性の残余として「世界」を考えるとしたならば(可能性の不可能性として考えたならば)、そもそもそれは問題とはならない(はずだ)。
それにこういうふうに考えると「社会」*2の位置が片手落ちになる気がする。この「世界」へのアクセスという問題系に「内へ/外へ」という二つのベクトルを見出すとして、「外へ」に対応する手段が「社会」を経由するものとしたならば、そのベクトルの有効性が損なわれているのが近代社会ということになるだろう。だとすれば、「内へ」のベクトルには「社会」を経由しない速度と方向が求められているわけで、それは哲学の歴史で言えば、デカルトのコギトにまで遡りカント−フッサールによってより展開された「超越論的認識」(あるいはフッサールにおける「超越論的主観性」)へと接続されるのが手順としては順当であるように推測される。
だとすると、その経由しない「社会」に対してぼくたちはどのような関係を結んでいけばよいのかという点が置き去りになるんじゃないか。というか、そこに対して言葉を尽くしたとしても、それは最終的には「世界」を定立する際には分離される種類の言葉ではないのかという疑問が(ぼくのなかに)発生するわけだ。
そういった推測と疑問を抱え込んだわけで、こうしたぼくのなかのすっきりしない部分がどのように解消していくのか、それを念頭に置きながら読んでいくしかないわけなんだけど。ただ、このすっきりしない感じが初めに設定された「世界」の定義に関わっている気がするわけだ。まあ、ネガティブな予感に駆動されて続きを「読まない」というのはもちろんお話にもならないわけで、注意しながら考えていきたい。


もうひとつはスピノザについて。
デカルトに端を発する心身二元論に対して、それに対する強力な異論である心身並行論、それとスピノザの考え方に興味を持った。とりあえず『エチカ』を読む予定。一応、予習と興味をかねてドゥルーズの書いた『スピノザ』を読了。それについても『エチカ』を読んでいく際に参照しながら考えていきたい。


*1:この本の刊行は2000年

*2:というか、社会学と言ったほうがいいのかもしれない