「世界」の濫用

積ん読*1だった『ファウスト』Vol.3(講談社)を手に取り、パラパラめくる。
いくつかの小説と東浩紀の批評を流し読みし、ほかの小説をペラペラ。で、放り投げる。なんというか、なんなのだろう、この「合わない」感は。気になってもう一度めくると、冒頭近く、編集長からの言葉にこんなのがあった。

世界に自分を合わせていくのか、世界を自分に合わせていくのか。
言うまでもなく、この『ファウスト』という新しい文芸雑誌は、明らかに後者のためだけに存在していくべき文芸雑誌であり、・・・(略)・・・

すっーと腑に落ちた。というか、ぼくのこの「合わない」感のほとんど全てが、この部分にあった。
まったく、「世界」というタームはいつからこうも安易な形で使われるようになったのだろう。当たり前の話だけど*2、いやおうなしに「自分」が巻き込まれている(しまう)ものとして、「世界」は問題であり続けた。たとえ極端な独我論であれ、それが認識論に関わる限りは例外でない。単純に疎外感を感じていればいいのなら、認識などやめてしまえばよいのだ。
だから少なくとも、「世界/自分」といったような単純な二項対立はそのままでは成立しえないし、ましてや関係性を考えることを停止して「片方を他方に合わせ」ればいいというような話にはならない。
上に引用したような、とても感覚的な「世界」の使い方はもちろん、例えば「社会」や「共同体」といったようなものへの視線が消えてしまった現状に対応している。「きみとぼく」が「世界」や「世界の終わり」に短絡するような感覚が一般化し、そこにリアルを感じてしまうこと。確かに現在、そういった面がいろいろな場面で増幅しているのは事実のようだ。「生活」からできるだけ「社会」を遠ざけること。それが目指されている*3
しかしながら一方で、それはマス化した*4視線に曝されることへの「怯え」であり、「甘え」でもあるだろう。なんというか、この『ファウスト』に載っている小説の多く*5にぼくはそれを感じてしまうのだ。正直、お腹いっぱいになる。
まあ、あくまで個人的な印象論だけど。
それに、どうせこの手のものはすぐさま淘汰の時期に入るだろうし(もう入っているのかもしれないが)。
あと、こういった作品群の「政治性」と、それに関連した「ジェンダー」の問題は、やっぱ個人的に気になるところです。


*1:いったいいつからだよ、と

*2:と、少なくともぼくは思っていたのだけれど

*3:その反転した危険性は、ほとんど感化されたままに

*4:あるいは、(被)統計的な。一人一人が所詮コマでしかなく、それゆえに「問題の対象」となるような

*5:もちろん、全部ではないけれど