曙太郎は夢を見る

あーうー言ってるうちに盆も終わってしまった。
盆前に考えてたことの絡みでいくと、PRIDEグランプリも新日のG1もオリンピックの陰に完全に隠れたままで終わってしまったし。
今回のPRIDE(の結末)は、完全にこのあいだまで書いていた[K-1の終焉]の文脈の中に当て込める内容だと思う。「強さをめぐる純粋な物語の不可能性」。
それに関連して、曙太郎である。
http://sportsnavi.yahoo.co.jp/fight/k1/column/200408/at00001971.html
この記事を読めば瞭然なのだけれど、曙はこのあいだまでぼくが考えていたことの「手前」にいる、完全に。彼は苛立っている。理由は簡単で、彼が望んでいることは「強さをめぐる純粋な物語」にコミット*1することなのに、K-1という舞台が(当初の思い込みとは違って)それを用意してくれないからだ。
これはまさに、K-1が終焉に向かっていることそのものの表層に対応している。

「サップや武蔵選手は違った。堂々、正面から戦えたから負けても納得した」

と曙は言う。
つまり、もっと簡略化するなら、曙はK-1に「情熱」を、破滅に向かうしかない情熱を求めている*2。これは武士道的であると同時に、騎士道的なものだ。騎士道的恋愛においては、<意中の人>を愛していることはその「愛」そのものに執着することを意味している。この根本的な他者の不在は、その不在ゆえに情熱を駆り立てる。
だとすれば、曙はすぐにでもMMAへと移行したほうがいいと思う。5年以上前ならまだしも、いまはK-1よりもまだ総合格闘技のほうがそれ(純粋な物語性)に近い。
その先にある「強さ」の不可能性のはるか手前でワサワサと「もがく」よりも、そのほうが建設的だ。そしてできれば気づいてほしい。もっとも、「明日のジョー」になることぐらいなら、いまの格闘技界でも夢ではないのだろうけれど。


*1:展開のはるか手前、「関わる」ことにすぎない

*2:「完全燃焼」という言葉自体が他者のいない、自己言及的なものだし