読んだ本のメモ。
ずいぶん前に買ったウィトゲンシュタインの『論理哲学論考』(岩波文庫)が積んだままになっているのを見つけてページを手繰ったのだけど、あいかわらず暗号文を解読するようにしか読めなくて、もうこのままではちっとも進む気がしなくなったので、情報を仕入れるために『ウィトゲンシュタイン入門』(永井均ちくま新書)を読んでみる。
こういうぼくのありかた自体が永井の言う「哲学をすること」でないのはこの際どうでもよくて、口当たりのいい文章と全体を貫徹する永井の個人的な視点(というか、問題意識)のおかげでとても読みやすく、「読む」と「書く」との位相の違い等も棚上げにしてすぐに読了。ただなんというか、この本を読了しても「勉強」にはならないなあと。当分『論考』は積んだままにしておく。
以下、メモのためのメモ。
永井の本における「独我論は語りえない」ということは、ぼくたちの周りの社会の中では当然のことながら、きちんと(というか、正面からは)消化されていない。<「ぼく」と「世界」との短絡>が例外状況でなくなっているのが現代だというのがここ数年来の(ぼくの)実感なわけだけど*1、これは独我論的な枠組みが大衆化された形態ともいえる。そこでは「語り」は「騙り」に直結し、それは発話の瞬間から「世界」を指し示す。と同時に身体感覚の差延として捉えられる空間は限られているために*2、過剰さは部分に収束する。結果、<恒常的に>全体は部分に対応する*3
こういったありかたが新たな関係性を発見できるのか、あるいは発見を誘発することはありうるのかということこそが考えられなければいけないんじゃないかと思う。
あー、五月終わった。


*1:あとひとつ、そこに加わるとするならば「きみ」だろう。その意味で、西尾維新の『きみとぼくの壊れた世界』という作品タイトルは秀逸だと思う

*2:物理的に。理由はそれだけじゃないけれど、主として

*3:問題は<恒常的である>ということだ