[愚者読]−『方法序説』

第四部へ。

 「実生活」と「真理探究」とを改めて峻別するデカルト

前にもいったように、実生活にとっては、きわめて不確実とわかっている意見にでも(・・・中略・・・)従うことが、ときとして必要である(・・・)。しかしながら、いまや私はただ真理の探究のみにとりかかろうと望んでいるのであるから、まったく反対のことをすべきである、と考えた(P40)

 先日ぼくは「判断のレベル」と「行動のレベル」という風に名づけて、デカルトはこの2つの異なるレベルによって方法を(というより規則を)変えていると(普通に)読んだ。その意味では、この引用部分は「ここからは真理の探究=判断のレベルに限って話を進めていきますよ」っていうデカルトのリードにあたる。
 で、目的。

まったく疑いえぬ何ものかが、私の信念のうちに残らぬかどうか、を見ること(同)

 この目的のために、デカルトは「四つの規則」*1を「私」に適用する。そしてその結果がこれ。

「私は考える、ゆえに私はある」というこの真理(P41)

 続いて実体レベルでの心身の分離。二元論。

私はひとつの実体であって、その本質あるいは本性はただ、考えるということ以外の何ものでもなく、存在するためになんらの場所をも要せず、いかなる物質的なものにも依存しない、ということ。したがって、この「私」というもの、すなわち、私をして私たらしめるところの「精神」は、物体から全然分かたれているもの(である)(P42)

 引用が多くなってきた。まあ、今日はここまで。
 ひとつ補足的に身悶えたこと。
 デカルトは上の引用に続けてこんな意味のことを言っている。「私は考える、ゆえに私はある」という命題が真だと確信させるものは、そのことを「きわめて明晰に私が見るということより以外に、まったく何もない(P42)」。よって、「明晰の規則」を一般的規則として認めてよいと考えた。
 うーん、やっぱこの部分、展開が分からない。このあいだもそうだったけど、「明晰さ」を使って語るときのデカルトはぼくにとってさっぱり明晰ではない。この先読んでいけば解決するんだろうか。

図式的に、というか数式展開的に読むことをデカルトのテクストは要求していると思うのでぼくはそういう風に読んでいるつもりなんだけど、なあ。


*1:これはその意味を単純に解釈するとプログラムのようなものだと思う。さらに言えば、デカルトの方法論は常に「再構成」の原理であって、「建物は何らかの形ですでにそこにある」ということを前提とした修正作業といえるんじゃないかとぼくは思っていた。つまり、パッチプログラム(修正プログラム)。だけどこの考え方は、「すでにあったものを消去するシステム」として「実生活と真理探究との峻別」を理解することで否定されるのかもしれない