[愚者読]−『方法序説』(補足)

西田幾多郎がこんなことを言っていた。

フランス哲学で合理主義といっても、単に概念的でない。デカルトが clare et distincte[明晰判明]という所に、既に視覚的なものがある*1

 『方法序説』の中で該当する部分は(いっぱいあるんだけど例えば)こないだ読んだ第二部だろう、多分。

第一は、私が明証的に真であると認めた上でなくてはいなかるものをも真として受け入れないこと。いいかえれば、注意深く速断と偏見とを避けること。そして、私がそれを疑ういかなる理由ももたないほど、明晰かつ判明に、私の精神に現れるもの以外の何ものをも、私の判断のうちにとり入れないこと(下線は引用者による。P22)

の部分とか。
精神に現れる「あり方」が「視覚的」というのは、たしかに「感覚的に」分かりやすい、読者にとっても。デカルトも分かりやすいからこういう言い方を使ってるのかもしれないし、あるいは言語というものが人間の行為に根ざして生まれたものである以上、それを用いるということ自体が伝達の不可逆性みたいなことに、必然的に帰結するのかもしれない。
あるいは、この文脈が「明証性」の部分と直接つながる以上、幾多郎がデカルトの方法論のコアの部分を、「(フランス哲学の)直覚的な物の見方」*2という、いわば非体系的で遡及できないものだと見なしていたという読み方ができるのかもしれない。
だとしたら、それはそれで楽でいいなあ。
以上、エッセイ的な文章の隅のほうをチクチク突付いてみました。


*1:「フランス哲学についての感想」より

*2:同上