[愚者読]−『方法序説』

第三部へ。

 建築のアナロジーを使って、道徳の規則を語るデカルト

理性が私に対して判断において非決定であれと命ずる間も、私の行動においては非決定の状態にとどまるようなことをなくすため、そしてすでにそのときからやはりできるかぎり幸福に生きうるために、私は暫定的にある道徳の規則を自分のために定めた(P29)

 気になった点が2つ。
 まず、レベルというかステージが2つ設定されていること。つまり、「判断のレベル」と「行動のレベル」とが「私」のなかにあって、その2つは同じ瞬間に相互にシンクロしている必要はないということ(というか、デカルトにおいて「理性を導くこと」が常に「再構築」である以上、それは不可能だといえる)。この設定は、「行動」は常に同じ瞬間の「判断」を要請するのではないというふうに、ぼくには読める。
 次に、この法則はあくまで「暫定的」なものであるという点。「判断のレベル」が妥当な形にまで成長するまで日常は待ってくれないから、といったところか。だとすれば、ここで定めた道徳の規則が規定するのはあくまで「行動のレベル」ということになる。
 ここらへんは昔中学あたりで習った「デカルト心身二元論」っていう暗記の知識をなんとなく思い起こさせる。

激しい頭痛。ぼくの場合、思考力は激しく身体のレベルに規定される模様。つうか、誰でもそうだと思うけど。
というわけで、今日はほとんど進まずに断念。