[愚者読]−『方法序説』

昨日の続き。

 三つの格率について。
(1)自分の国の法律と慣習に従い、そして最も穏健な意見に従って自分を導くこと
(2)自分の行動について確固かつ毅然とした態度をとり、疑わしい意見でもそれを採用すると決めたなら、変わらぬ態度でそれに従い続けること
(3)常に運命よりも自己に打ち克つことに努め、世界の秩序よりはむしろ自分の欲望を変えようと努めること
 要約すると上記の形になる。
 この道徳の格率に関する議論については、とりわけデカルトの生きていた時代の背景等をかんがみる必要があるといった意見もあるようだけれど、そこら辺の検討はやりだしたらキリがないし別に研究しているわけでもないので、あくまでテクストに則して考えていく*1
 昨日考えた、「判断のレベル」と「行動のレベル」とが分化しているという見方を採用すれば、この3つの格率についてはある程度納得できると思う。
 その方向性でいくと、(1)の格率について補足しているこの場所に目が行く。

そして私は特に、あとになって自分の考えを変える自由を多少なりとも失うことになるところの、約束というものを、すべて極端なことのうちに数えたのである(P31)

 「約束する」という行動は判断のレベルを拘束する。だからデカルトはそれを排除しようとする。「行動のレベル」→「判断のレベル」という影響関係を嫌ってるんだろうなあと思う。逆のベクトルについては、これらの格率が暫定的なものだといっている以上、前提になっているんだろうし*2
  ほかの部分は、「あっ、そういう風に処理するのね」みたいな感じで読めてしまったので、これで第三部は終了。

上の部分とはそれほど連動しないのだけれど、個人的には(3)の格率はどうしたものかと思う。「個人的には」=「21世紀に生きる愚者的には」ってことね。(3)はストア派的な意見らしいんだけど*3(で、それはどうでもいいんだけど)、デカルトの(時代の)用法としての「世界」っていうのはどういうものなんだろう。と思ったのは、今の時代って「わたし、あなた、世界(あるいは世界の終わり)」っていう要素で完結している状況(人たち、感覚)が遍在している気がする。
全部が見えるものと、まったく見えないもの。極端さによって構成されたモジュール。
あるいは、全部見たいものと、感じることしかできないもの(感じてしまうもの)。
どっちにしろ、理性を導いていっても絶対に捉えることのできない特異点みたいなもの、それが時代感覚みたいな形で(嫌いな言葉だ)共有されている。それを自分の中に取り込んでいる点で「集」なんだけど、それが見えないことによって個人は閉じてしまう。
いや、これでは何も始まらない。

考えれば分からないことが出てくること。それは健全なことだなあと、しみじみ。


*1:このへんのことは、読者としてのぼくの「立脚」の問題で、別の機会に考えてみたい

*2:うーん、個人的にはあんまり面白くない読み方だけど

*3:谷川多佳子『デカルト方法序説』を読む』その他より