[愚者読]−『方法序説』

第二部、続き。

 デカルトの方法とは何かに入っていく。

私は、これら三つの学問(論理学、解析、代数のこと)の長所を兼ねながら、その欠陥をまぬがれているような、何かほかの方法を求めねばならぬと考えた(P22)

 で、続けてその方法である四つの規則を挙げている。それぞれ、
(1)明証の規則
(2)分析の規則
(3)総合の規則
(4)枚挙の規則
 と呼ばれているらしい*1
 思うに、(1)だけがなんか浮いているような気がする。(2)〜(4)は本当に「方法」で、機械的なにおいがする。何物も入り込まないようなオートマティックな規則。言い換えれば、タイムラインに乗ったフレームの連続性のような。対応する行為が想定できる。
 それに対して(1)には、何か規則というよりも覚悟のようなものが感じられる。ほかの規則とはちょっとレベルが違うと思うので、なぜそう思うのかを検討するため引用。

第一は、私が明証的に真であると認めた上でなくてはいなかるものをも真として受け入れないこと。いいかえれば、注意深く速断と偏見とを避けること。そして、私がそれを疑ういかなる理由ももたないほど、明晰かつ判明に、私の精神に現れるもの以外の何ものをも、私の判断のうちにとり入れないこと(P22)

 この規則については、「どの瞬間にも」適用されなければならない。明らかにこれは、(2)〜(4)の規則すべてに覆いかぶさる、メタ的な規則である。フレームというよりも、(未知のフレームをもそこに含む)タイムラインの規則といえる。そしてこのことが、行為に対する覚悟のイメージを喚起する*2
 その意味で非常に重要なこの規則について、ぼくにはいくつか理解がぼんやりしている点がある。
 まず、「明証性」ということ。この言葉自体、いきなり出てきて真理の基準的な意味合いで使われているのだけれど、これはいったいどういうものなのか。また、いきなり出てきてもあまり無理を感じることなくぼくには読めてしまったのだけど、それはきっと何日か前に考えた「良識」の構造を、ぼくがそのままこの「明証性」に当てはめてしまったからだと思う。
 ただしこの考え方には無理があって、そもそも『方法序説』は「理性(=良識)をよく導くための方法についての序説」であるわけだから、目的と方法両方に同じにするものがはめ込まれていたら簡単にトートロジーに陥ってしまう。
 次に、「私が認める」ということ。このことが言外に含むこととは、決して「私:他人」による他方の否定といったような、相対的な二項(多項)対立ではないはずだ。つまり、「私が認める」という契機しか、真理の判断には残されていないことになる。そうすると、「個」はいったいどのようにして「集」に接続しうるのか。ルートを上にたどっていく道筋しか考え付かない(「真理は一つだけ」)のだけど、ここでもやっぱり鍵になるのは「明証性」なり「良識」だと思う。
 最後に、

(この方法が私を満足させた点は)この方法を用いることによって、私の精神がその対象をいよいよ明晰に判明に考える習慣を少しずつ獲得してゆくと感じたこと(である)(P26)

 この部分が少し気になったのだけど、いまのところは単純に精神の成長のイメージで捉えておく。

ようやく疑問点がいくつも出てきて軽い満足。第二部、終わり。


*1:全部引用として抜き出すのが面倒なので。谷川多佳子『デカルト方法序説』を読む』その他を参考にした

*2:言うまでもないことだけれど、ここでぼくは、デカルトの中で「時間」や「行為」というものがどのような位置を与えられているのかを検討せずに、4つの「規則」にこれらの問題を接続している。そしてそれでいいと思っている。このことについては[愚者読]とは別に、別の機会で少し考えたい