[愚者読]−『方法序説』

第二部へ。

 気になったところ。

[多くの違った人の意見から組み上げられた書物による学問は、]良識あるひとりの人が、目の前に現れる事柄に関して、生まれつきのもちまえでなしうる単純な推理ほどには、真理に近くありえない(P16)

 また、

[もう何年も自分の欲望と教育とに支配されて生きてきた]われわれの判断は、われわれが生まれたはじめわれわれの理性の完全な使用ができてただ理性によってのみ導かれてきたとかりに考えてみた場合ほどには、純粋であり確実であることは、ほとんど不可能なのである(同)

 だから、「自分という領域については、いままで形作ってきたものを一回全部取り払って、良識=理性の基準で再吟味して取り入れるのがベストな方法だね」とデカルトは言っている。
 ただ、これは方法(詳細な内容はあとで出てくるんだろうけど)としてはとても孤独な感じがする。個人作業。それに、良識の基準ってやつがやけに重く見えはじめた。なんだよそれみたいな。基準にしてはやけに範囲が小さいものじゃないか?
 何を考えたらいいのかよく分からないので先送り。
 ただ、「良識」の範囲が大きければ大きいほど(基準の記述が多ければ多いほど)個体差は減少するというのはありえるとぼく*1は思う。方法による分岐が少なくなるというか*2
 さっきの、「自分という領域については、いままで形作ってきたものを一回全部取り払って、良識=理性の基準で再吟味して取り入れるのがベストな方法だね」っていう部分に関しては、「良識」を「教義」かなんかに入れ替えればそのまま安い新興宗教的なイメージに重なる気がする。基準っていうのはある意味制約とか禁忌なわけで、最終的には自由を担保にする。
 じゃあ担保にしていったい何を借りてるのだろう、そういう人たちは。
 保障とか、安全とか、なんかそのあたりのような気もする。

話が混乱してズレはじめたのでこのへんで休止。


*1:やっぱり主語なしで進めるとぼやける、なにもかも

*2:ぼくも演繹的イメージでデカルトを読んでいるみたいだ