[愚者読]−『方法序説』

第一部から、思ったこと。

 良識を静的なもの、固定的なものとして考えるとすると、良識それ自体が展開するということはありえない。良識は人に「そなわっているもの」であり、展開するのはあくまでそれがおりる「精神」だといえる(この短い第一部を読む限り、デカルトは、精神に関しては成長物語を認めている。この方向性はヘーゲルにいたる近代哲学のひとつの側面として示唆的だと思う)。
 ここに「良識=常識」と考えることの矛盾が生まれてくる気がする。

 小林秀雄も、デカルトにおける良識とは「常識」といってよいものだと言っているらしいので、そこら辺の議論を少し読んでみた*1
 小林秀雄の講演「常識について」(1964年)。ここでの常識はcommon senseのことだと秀雄は言っている(らしい)。つまり翻訳の際にそぎ落とされた、あるいは付け加えられたものがあるという認識。そこからイギリスのスコットランド学派に触れつつ、ヒュームに帰結する懐疑論的な方向性を批判するために彼らの使った「常識」を取り上げ、デカルトの良識についても、それは同じ意味で「常識」と言っていいものなんだっていう話を展開している(らしい)*2
 印象としては、この秀雄の議論の立て方にはいろいろな意味で無理があると思う。
 まず、自ら日本語の「常識」と英語のcommo senseとの間にある意味の齟齬について触れておきながら、その齟齬を利用する形で話を進めている(ように見える)点。これは講演という形式に沿っているために生じているのか、あるいはわざとそうしているのかもしれない。日本語で「常識」といった場合、それは言外に「常識はずれ」という否定的意味を含んでいる。それに対して、「等分で所与」なデカルト的「良識」には、そうした構造はありえない。つまり、前者は構造的に「動」なのであり(境界線が流動的だということ)、その点で両者は決定的に相容れないはず。この点で無理がある。
 次に、歴史的な経緯を軽視している(と思われる)点。ヒュームの懐疑論的結論への最初の道筋を作ったのはたぶんロックの認識理論のはず。「知覚の直接の対象は外在の事物じゃなくて心の中の観念だ」っていう観念理論。で、このロックの理論の枠組みを作ったのはデカルトの議論だった。つまり、リードに代表される「常識」の用法をそのままデカルトの「良識」に当てはめる議論の立て方は、こうした議論経緯を無化することになるんじゃないか。付随して、秀雄の「スコットランド学派におけるcommon senseの把握」にも疑問が残る。
 最後に、上の2点を踏まえ、「良識」を「常識」と言い換える危険性について。これはつまり、秀雄は「常識」をcommon senseの意味に近づけることを前提として講演しているが、デカルトの「良識」に触れることによって(「良識」=「常識」とすることで)、この「翻訳的齟齬」を再生産してしまっているような感じがするということ。
 以上の点が気になった。

 さっき述べた矛盾というのもそういうこと。
 こんなところで第一部から考えたこと、終わり。

 これを踏まえて、○○教授へのとりあえずの回答。
・「良識」を「常識」と言い換えることにはいくつかの困難があり、それを振り切って行うには生まれる矛盾が多すぎます
・第一部に則せば、「良識」の本質は「静」にあり、その方法論的展開こそが「動」になると思われます。社会的な連帯その他は、その「方法論」のほうに委託して考えてみてはいかがでしょうか。
 うー、なんとなく当初の目的のひとつは達成した気がしないでもない。
 まあ、せっかくの機会なので続きも読んでいこうと心に決めるのでした。


*1:谷川多佳子『デカルト方法序説』を読む』(岩波書店)を参照した。又聞きだね、いかんいかん。

*2:やっぱ原典読まないと。タダでさえ悪い歯切れが。