トラウマなんて、知ったことか

最近読んだ本と映画のメモ。
斎藤環心理学化する社会』(PHP)。タイトルの通り、精神分析の「言葉」が社会を覆っている現状についての批判の書。いまのぼくには、それほど目新しい論点はなかった。ぼく自身が「トラウマなんて、知ったことか」ってタイプの人間なこともあると思うけれど。まあ、最近は「トラウマがない」ことが生み出す屈折っていうのも多いような気がして、だからこその「自分語り」「自分探し」なんだろうけど。トラウマ*1でもない限り、モチベーションを保てない、方向付けられないみたいな。不謹慎を承知で言うと、使えるものがあるだけ幸せなんだろうって感じかも。というか、この本自体はもう少し前、出版された直後に読んでおけばよかった。
中沢新一『人類最古の哲学』、『熊から王へ』(ともにカイエ・ソバージュシリーズ。講談社選書メチエ)。読み物としては面白い。ぼくは、文化人類学という領域はあまり得意ではないのだけれど、その理由もまたこの点にあるのだと思う。つまり、読み物としてとらえてしまうのだ。これはぼくという人間の、想像力の枯渇の、ひとつの例だと思う。反省したほうがいいだろう。とにかく、読みやすいので続きも押さえておくつもり。


『パッチギ!』(監督:井筒和幸)。それなりに面白かった。時代設定の1968年っていうのが大きなポイントだろうけど、その辺の最低限の知識がない人が見ても青春ドラマとして楽しめると思う(リアル感は薄まるだろうけど)。「ロミオとジュリエット」の昔から、断絶と接近とを表現するには恋愛を前面に押し出すのが有効なわけで、その意味でも定式どおりのカチッとした映画だといえる。
ただ、こうまで分かりやすくしかも直裁に表現してもおそらく、それが歴史というか、堆積への「反省」*2を大きな枠組みとして採用する以上、ある種の人たちには届かないだろう。まあ、そういう人たちは「泣き」という感情のフックに引っかかりやすいだろうから、そういう意味でも考えられている映画だとは思う。
でもさ、消費する側に知識がないことを前提にして映画をつくるっていう時代は、やっぱり不幸なんだと思うんだよね。


*1:というか、トラウマの自覚

*2:認識の形式としての